底辺ニートは社会復帰の夢をみる

社会復帰を目指す底辺職歴なしニートの日記帳

200日

ふと履歴を見て見ると、継続206日というもじがあった。

なるほど、こんなに長くやっていたのかと驚いた。

感覚的に、ほんの一瞬前に始めた様なものなのだ。

200日というと、およそ1年の半分は通り過ぎた事になる。

それだけ過ぎてもまだ就職していないわけだ。

まだかよ、というべきか。

職業訓練を受けるまで来たのだから、やっとここまでか

というべきか、個人的にはまだかよという感じなのだが、

やっとここまできたと自分を褒めておくことにする。

 

此処まで長く続いたのは要するに、苦ではないという事に尽きる。

毎日、それっぽい事を書いていたのはたぶん、100日辺りまでで

それ以降は短文の日も多く、

最初こそ、駄目だろと思っていたのだが、

今はもうそういうもんだろとさっぱり割り切っている。

その日のテンションや状況なんてその日によるし、

何も出てこないなら、出てこないのだ。

ならば、ノルマ達成! とでも思ってさっと書き上げ、

よくやったとでも思って自分を褒めてやる方が明日の糧になると思う。

無論、反省が必要な日は反省を書きますが。

 

1年ぐらい行くのか、あるいは就職してとりあえずエンディングとなるのか。

結果は分からないけど、出来れば就職で終わりにしたい。

人並みまでとは望まない。

1年目はその少し下ぐらいまで良ければとりあえずいいのだ。

2年後ぐらいで人並みにする。3年目は少しだけ上を目指す。

とりあえずの中間目標は10年でスペシャリストになる。

そんな感じだ。

ないものはない

ジョブカードを作っていた。

1カ月に1度は面談の様なものをやるので、

その時の為に作っておいてほしいといわれたのだ。

しかし、前回も作っておいて思ったがスッカスカであった。

 

高卒、専門中退。

そんな感じで学歴はがたがたであり、

ボランティアなんてものはやった記憶があるが、

そもそも7、8年も前の記憶なんて残っているわけがない。

学校で興味を持った事、ない。

あえていえば、プログラミングのきっかけを作ってくれたことだが、

本当にそれだけだ。高校の3年間はほとんど遊んでいたといってもいい。

そのぐらい、授業はどうしようもないものだったのだ。

 

書けない、書けない。時間は過ぎていく。

そのうち、考えるのをやめた。

自分をよくみられる様にしたくても、ないものはないのだ。

じゃあ、しょうがないなと諦める。

とりあえず、明日帰ってきたらさっさと仕上げてしまう事にする。

今日は寝る! 寝るぞーー!

現実との境界線

子供の頃、漠然とした記憶がある。

雷の音が響く日、友達と一緒に膝を抱えていると

目の前に雷が落ちる、というものだった。

本当の記憶の様に鮮明に残っているのだが、

そんな事があれば家が燃えてるし、そもそも目の前であの

光をくえらば失明もあるんじゃないかと思う。

なので、おそらくこの記憶は間違いなんだろう。

でも、はっきりと記憶に残っている。

そういう記憶は、他にもいくつかある。

 

そういう記憶があると、現実という物がよくわからくなる。

今、見えているものが現実で

それ以外は偽物なのだろうか。

それは何か違う気がする。

でも、確かじゃないものを現実としてしまえば

やはり現実は揺らぐ。

 

どこまでが夢で、どこからが現実か。

あるいはどこまでも夢なのか、どこまでも現実なのか。

人によって、感じ方は違うのかもしれない。

死ぬ気になるという本当の意味

死ぬ気になるという言葉がある。

昔は必死にやるだとか、これでもかというほど頑張るという

意味だと思っていたのだが、

今はこれは違うのだと確信している。

 

一度、どん底まで落っこちた時、

どうしようもなく苦しい日々が続いていた。

明日死ぬのか、今日死ぬのか、なら今死ぬのか。

どうしようもなくうつうつとした気持ちで、

酷い片頭痛が来た時、痛み止めを飲んでも収まらない痛みと

そんな気分が重なって、包丁を手に取って死のうと思った瞬間もあった。

もっとも、それでどうやって死ぬか分からず

死ぬ方法を考えているうちに痛みでもがいて暴れている内に

疲れて眠ってしまったのだが。

今、考えると一瞬でも思考力を取り戻して

首切れば死ぬじゃんと思いついたら今、此処にいなかったのではと思う。

恐ろしい話である。

 

さて、いつも通り脇にそれたが

死ぬ気になるというのはつまり、死ぬという事を

覚悟するという事ではないかと思う。

自分の中の最低条件を決めるのだ。

これができなきゃ死んでやろう、そういうものをだ。

そう決めつけてやると、いがいとやる気になるというか、

やらなきゃいけないという気持ちになる。

ケツに火がついた状態になる、常時だ。

 

死にたくないと思えた人なら、やる気になるだろう。

死にたいと思っている人は、これぐらいできない自分なら

死んでも問題ないだろうと気持ち、楽になるかもしれない。

後者はかつての私で、前者は今の私だ。

 

あれだけ殺してくれと願っていたが、

今は死にたくない。一日でも長く生きていたい。

そう思う。

 

これぐらい出来なきゃ死んでもいいと思って頑張っている内に、

なぜか死にたくなくなったのだ。

妙な話ではあるが。

とりあえず今は訓練を頑張り、就職して、50ぐらいまで生きるのが目標だ。

50以上まで生きるかは、50になってから決めよう。目標は当日更新制だ。

 

 

 

 

 

失敗からしか学べない

何時か言ったと思うのだが

1回目は必ず失敗するというのは、長く続いて来た

私のジンクスである。

例えば、携帯をマナーモードにしてゲームを起動したら

大音量が流れて辺りが静まり返ったとかがある。

これは、携帯の音量とアプリケーションの音量が別であり、

携帯をマナーモードにしようが、サイレントにしようが、

アプリの音は出るというクソ設定の携帯によくある現象だ。

因みに、私と同じ事をしてしまった人はとても多いらしい。

 

話はそれたが、要するに私は1回目でスッと

上手くいくタイプではない。むしろ、

最初の助走で思い切りずっこけて、

加速をなくした状態で、ふらふらとなりながらなんとか

ゴールするか、倒れたまま動けなくなるかの2択がほとんどといえる。

因みに、此処7年ぐらいは後者の方が多かった

 

助走というのはつまり、自信とか目標とかそういうものである。l

何もない暗闇の中を走り続けるのは酷く辛いものだ。

実際、私は何度も挫けている。

なので、諦めるという行為を選択してしまう人々の気持ちがよくわかる。

 

先週も失敗した。今日も失敗した。

無論、そこから学べる事はあったし、同じ失敗を繰り返す事はない。

繰り返す事は0ではないが、繰り返すたびにその確率は下がっていく。

成長といえるのだろう。確かにそのたび、昨日より少しだけ

成長したという実感を得る。

でも失敗するたびに思う。もう失敗したくない。失敗するのは嫌だ。

今日の失敗で人から悪い印象を受けたのではないか。怖い、と。

 

失敗は私に成長を与えてくれる。

でもそのたびに助走となる自信とか、目標とかを奪っていくのだ。

成長すればするほど一歩が怖くなっていく。

なんともまぁ、面倒くさい人間だと感じる。

正直な話、自分のこの部分だけはいまだに肯定できていない。

 

何時までも失敗し続けるのだろうか。

それとも、何時しか失敗はなくなって、

自信をもって一歩一歩を歩きだせるようになるのだろうか。

出来れば後者が良い。未来に希望を託したい。

失敗からしか学べない

1回目は失敗するというのは、私にとっては

長らく続いてきたジンクスである。

携帯をマナーモードにして安心しきっていて、

アプリを起動したら大音量が流れ辺りが静まり切ったとか

(調べると携帯の音量とアプリケーションの音量は違うらしい

 

父と話す

最近、父とよく話す事が増えて来た。

数年前は全く話さない日もあったし、

そういう事から考えると、大分変ったなと感じる。

話すことはとりとめもないことだけど、

父の趣味の野球の事だとか、今日はサッカーを見に行くだとか、

サラダを買ってきてほしい、お茶を買ってきてほしい。

 

まぁ、なんという一般的な日常会話というべきものを

よく話す様になった。

同時に、体調の悪さを訴える日も多い。

足がしびれる。腰が暑い。調子が悪い。

そんな長生きできない気がするよとか、弱気な発言をする日も多かった。

の、わりにはアイスを食べたり甘いものを食べてたりもするので、

お前、糖尿病だろ!! とか言いたくなるがいってもやめないというのは

よーく身に染みている。

そういう悪い事だけはしっかりと受け継いでいるからである。

どうせなら、その脳みその出来を半分でいいから渡して欲しかった。

 

家は明るくなった気がする。

少しだけ、ほんのすこしだけ。

出来れば長生きしてほしい。

まぁ、100までいきろとか高望みはしない。

あと10年でいい。返せるものは返しておきたい。