底辺ニートは社会復帰の夢をみる

社会復帰を目指す底辺職歴なしニートの日記帳

生きるという事

ふと、本屋でラノベ作家になりたかったとか

そんな感じのタイトルを見かけた日の事を思い出す。

昔は私も目指していたなぁ、というか

オタクニートの10人に5人ぐらいは目指すのでは、と思う。

中には本気の人もいるだろう。

ひょっとしたらデビューしてしまう人もいるかもしれない

では、自分はというと当時は本気だと信じていた。

が、今思うと本気ではなかったのだろう。

あの頃は自分という存在を繭で包んでいた。

自分というものが存在しなかった。

だからこそ、あの夢は贋作でしかなくて。

ただ、夢を持つ人に憧れた、

起きればすべてが消えてなくなる泡沫の夢だったのだろうと思う。

なぜ、そこまでして夢を必死に求めたのか。

まぁ、それは単純な話で。あの頃の私は、毎日死にたいと思っていたのだ。

 

生きる意味が欲しかった。

というのは何か擦れた戦士の様な感じなのだけど、

私の場合はちょっと違って、私はというか死に憧れがあった。

よくアニメとか出てくる破滅主義者を見ると「それ、わかるぅーーー!」

と、共感してしまう事もしばしばあった。共感したくないけどなぁ、あんなクソと!

多分、子供の頃に短期間に死に触れすぎたのが原因なのだと思う。

親族や知り合いの笑顔ではないけど、安らかな死に顔が記憶に残っている。

その顔が美しいと思ってしまった。だから死に憧れた。

彼らは生きぬいた挙句死んだのだからあんな安らかな死に顔だったのだ。

ならば、私も死ぬために生きよう。そんな事を思いながらも10年も20年も生きた

が、生きれば生きるほど生きたくなるし、同時に早く死にたくもなる。

4:6で若干、死にたいが勝っていた気がする。

そこにニート期間に抱え込んだ焦り、無力感。もろもろの心労が加わり

1:9でかろうじて生きているような毎日が続いていた。

長くなってきた、端折ろう。

まぁ、なんだかんだで最終的に私は死んだ。

 

いやまぁ、本当に死んだ訳じゃない。

ある日、どこかでこんなものを見た「生きる為に最低条件を決める」

そんな話をちらほら見かけたのだ。たぶん、複数あったのでついったーだった

様に思える。なるほどと思った。要約すると単純な話で。

「これさえあれば生きていい。これさえ守れないなら死んでいい」

「毎日を最後の日だと思え。明日には死ぬと思え」

なんというか、私にはその生き方がぴったりだったのだ。

結果、その生き方は今も続いている。

 

毎日を全力で楽しもうと思った。

学ぶなら全力で学ぼうと思った。

働くなら、やはり全力で

稼いだお金でやはり全力で遊ぶのだ。

心の残すことなく、満足する1日を送る。

なるほど、いい死に顔が出来そうだ。

50か60かあるいはもっと先か。

そこまでなんとか生きれそうな気はしている。